少し前に書いた「サインを手放しなさい」の続きです。
しっくりくる気付きが来たので、記事にします。
何故、神社で歓迎のサイン、不歓迎のサインを気にするのか??
サインがあれば、「神様に歓迎されてるから、参拝して良かった」と安心出来るし、嬉しいから。
つまりそれは、起こる事象によって自分の行動への答えと価値を見出し、そこに一喜一憂している他人軸だと結論にしていましたが、さらに先がありました。
外側にサインを探し一喜一憂することは、「目の前の人に愛をもらって喜ぶ、貰えなくて落ち込む」ことにとても良く似ていると気が付きました。
目の前の人が「歓迎」してくれているから、嬉しい、喜ぶ、満たされた感を感じ、「不歓迎」だと、え?、落ち込む、怒り、落胆を感じる。
それが、「見えない神様」になっただけ。
完全に「貰うこと」ばかりを考えている状態です。
これは、完全に無意識です。
神社に来る時だけではなく、普段の日常から、そういうことをしているから、その日常の流れで気にしてしまう。
エイブラハムの言葉に、「節目ごとの意図確認」という言葉のがあります。
この節目ごとの意図確認とは、「節目(場面)ごとに、自分がどう過ごしたいかを意図しなさい」という意味です。
例えば、仕事をしている時、トイレに行く時、買い物に行く時、参拝する時、ご飯を食べる時、お風呂に入るとき……
一区切りごとの行動毎に「意図しなさい」という意味です。
参拝する時、「どんな気持ちで参拝したいですか?」
ご飯を食べる時、「どんな気持ちで食べたいですか?」
仕事をする時、「どんな、気持ちで仕事をしたいですか?」
その「気持ち=気分」を意図して設定する。
それをやると、自分で決めていくため、他人から「貰う」ことをしなくなります。
慣れてくると、他人がどう思おうがどんな機嫌でいようが、「自分の気分」を自分できめられるようになります。
今、私は目の前の人とどんな気分で過ごしたいか?
今、私は目の前の人とどう楽しむか?
ここに、「歓迎されているか否か」を気にする心理は入っていません。
どんな気持ちで、神様にお願いをしようか。
参拝中をどうやって楽しもうかな。
ここに、神様からの「評価」を気にする心理はありません。
どうしたら気持ちが神様に届くかな?
ここにあるのは、一心に祈る気持ちです。
今回は「サイン」のことを書いているので、参拝を事例にしていますが、これは日常的にも当てはまることです。
他人からもらおうとばかりしている人に、会いたいと思いますか?
これが対人なら、
「またパワー分けてね!」
毎回そういう人に会いたいでしょうか?疲れると思います。
人の評価を気にしている人に会いたいと思いますか?そういうのって、伝わるんですよね。
その「貰おう」という気持ちが、「サインで一喜一憂する」に出ていたんだということに気が付きました。
この参拝を楽しむにはどうしたらよいかな?
目の前の人と楽しむにはどうするかな?
気を楽にするにはどうしたら良いかな?
自分が発するエネルギーを良いものにするにはどうしたら良いかな?
全て、与える側の視点です。
これは視点を変えるだけなので、本当にすぐに切り替わり、誰にでも出来ます。
もらう側の視点→与える側の視点 に秒でなれます。
サインに苦しんでいるなら、この視点切り替えをやると心が軽くなりますよ。