歓迎のサインを手放す②

少し前に書いた「サインを手放しなさい」の続きです。

しっくりくる気付きが来たので、記事にします。

 

 

 

何故、神社で歓迎のサイン、不歓迎のサインを気にするのか??

 

サインがあれば、「神様に歓迎されてるから、参拝して良かった」と安心出来るし、嬉しいから。

 

つまりそれは、起こる事象によって自分の行動への答えと価値を見出し、そこに一喜一憂している他人軸だと結論にしていましたが、さらに先がありました。

 

 

外側にサインを探し一喜一憂することは、「目の前の人に愛をもらって喜ぶ、貰えなくて落ち込む」ことにとても良く似ていると気が付きました。

 

 

目の前の人が「歓迎」してくれているから、嬉しい、喜ぶ、満たされた感を感じ、「不歓迎」だと、え?、落ち込む、怒り、落胆を感じる。

それが、「見えない神様」になっただけ。

 

 

完全に「貰うこと」ばかりを考えている状態です。

これは、完全に無意識です。

 

 

神社に来る時だけではなく、普段の日常から、そういうことをしているから、その日常の流れで気にしてしまう。

 

 

エイブラハムの言葉に、「節目ごとの意図確認」という言葉のがあります。 

 

 

この節目ごとの意図確認とは、「節目(場面)ごとに、自分がどう過ごしたいかを意図しなさい」という意味です。

 

例えば、仕事をしている時、トイレに行く時、買い物に行く時、参拝する時、ご飯を食べる時、お風呂に入るとき……

 

一区切りごとの行動毎に「意図しなさい」という意味です。

 

 

 

参拝する時、「どんな気持ちで参拝したいですか?」

ご飯を食べる時、「どんな気持ちで食べたいですか?」

仕事をする時、「どんな、気持ちで仕事をしたいですか?」

 

 

その「気持ち=気分」を意図して設定する。

 

 

 

それをやると、自分で決めていくため、他人から「貰う」ことをしなくなります。

 

慣れてくると、他人がどう思おうがどんな機嫌でいようが、「自分の気分」を自分できめられるようになります。

 

今、私は目の前の人とどんな気分で過ごしたいか?

今、私は目の前の人とどう楽しむか?

 

 

ここに、「歓迎されているか否か」を気にする心理は入っていません。

 

どんな気持ちで、神様にお願いをしようか。

参拝中をどうやって楽しもうかな。

 

ここに、神様からの「評価」を気にする心理はありません。

 

 

どうしたら気持ちが神様に届くかな?

ここにあるのは、一心に祈る気持ちです。

 

 

 

今回は「サイン」のことを書いているので、参拝を事例にしていますが、これは日常的にも当てはまることです。

 

 

他人からもらおうとばかりしている人に、会いたいと思いますか?

 

これが対人なら、

「またパワー分けてね!」

毎回そういう人に会いたいでしょうか?疲れると思います。

 

人の評価を気にしている人に会いたいと思いますか?そういうのって、伝わるんですよね。

 

 

その「貰おう」という気持ちが、「サインで一喜一憂する」に出ていたんだということに気が付きました。

 

 

 

この参拝を楽しむにはどうしたらよいかな?

目の前の人と楽しむにはどうするかな?

気を楽にするにはどうしたら良いかな?

自分が発するエネルギーを良いものにするにはどうしたら良いかな? 

 

 

全て、与える側の視点です。

 

 

 

これは視点を変えるだけなので、本当にすぐに切り替わり、誰にでも出来ます。

 

もらう側の視点→与える側の視点 に秒でなれます。

 

 

 

サインに苦しんでいるなら、この視点切り替えをやると心が軽くなりますよ。

言葉に寄りかかるとうまくいかない

言葉に寄りかかる、とは

・この人がこう言ったから、その通りやる

・これが良いって書いてたからやる

 

人に寄りかかる、とは

・この人なら私を変えてくれる

・この人に何とかしてもらう

という姿勢です。

 

 

人生的な概念や生き方を知識としていれて実践するなら、「腑に落ちてからやる」ほうが良いです。

 

腑に落ちて、「あ、いいな」と感じたらやる。

内容だけではなく、書いている人の気質やエネルギーも伝わります。

 

この「あ、何か良いな」の気分の軽さは、その気質やエナジーを選ぶとても大事なセンサーです。

 

 

それに、やりながら腑に落ちることもあるけど、腑に落ちたらやるほうが、多分「気分が良い」はずです。

 

 

腑に落ちてないのに、その人が「自分と合うのか=友達になりたいと思うか」分からないうちにやっちゃうと、合わない……ってなる確率高いよね。

 

 

私も、とにかく変わりたくて色んな人のところへ行きましたが、腑に落ちてないのに申し込んで、腑に落ちてないのにやるから、うまくいかなかった時に「人のせい」にしていました。

 

いやいや、「その人」を選んだのは自分でしょ?って。失敗したと感じるのは、そもそもの選んだ動機が不純だったからだろうと。  

 

凄かったですよ。

「〇〇万円も出したのに変わらなかった!期待した内容じゃなかった!詐欺だ。全然何も得られなかった!」と、しばらく怒りが抜けなかったね。

 

今なら分かるけど、そもそもそれを選んだ動機が「この人のこの講座なら自分を変えてくれるかもしれない!」という邪かつ不純すぎるものだったんですよ。

 

かつ、その先生を中心とした輪の中に入りたい、仲間に入りたいという「友人がほしいという渇望」もありました。

 

 

その結果、この講座を通して、生涯の親友が一人できましたが、そこに目を向けず「不満」ばかり言ってずっと怒っていました。

 

 

いやいや、そもそものスタート地点が、

「この人!!」「これだ!!」と一致して腑に落ちて選んでなかったでしょ?

 

「この人なら自分を変えてくれるかも」って、他人任せにしてたでしょ?

 

だから、失敗したのよって。

 

 

 

「自分を変えたいって思ったから選んだんじゃん。じゃなかったらやらないって」?

 

だとしたら、そもそもあなたにそれは必要なかったってことよ。

 

 

あんなにお金かけたのに!

むかつく!

 

 

…いやいや、そもそもの動機が「自分を変えたいから、この人のこの講座なら、変えてくれるし変われる!」って、動機が外側だし不純だったじゃねーかよ。

 

「この人良いな、楽しそう!!」「絶対この人だ!」という一致感、確信はあったの?

 

 

この人と決めたから絶対信じる」と腹で思えたの?

 

 

それがないなら、打算的な思考で決めたってことでしょう?

 

・この人なら自分が欲しいものをくれる

・この人なら分かってくれる

・変えてくれる

 

 

こんな不純な動機で選んだから、うまくいかなかったのよ。

 

 

 

自分を理解し、受け入れ、許すのは自分自身がやることだし、「変わる」のも自分しかないのよ。

 

「結果的に」変わってるもなの。

 

変わるためにやること自体が、「このままではいけない」という焦りからきてる、ということなんですよ。

 

その焦りが、「暴走した自我」だから。

 

 

暴走した自我が、正気を失ったまま選んでしまった。だからうまくいかなかった。 

 

 

それだけなんです。

 

 

 

 

 

この事例も、「言葉に寄りかかる」「人に寄りかかる」〜起こったことです。

 

動機が、「言葉」「人」、外側だから、自分で責任を回収しない。

 

 

うまくいかなかった時に、「自分の捉え方が間違っているんだ」となれないのは、その人や知識・言葉に寄りかかって責任を転嫁しているからです。

 

 

 

 

本当は自分はどうしたい?

本当は、どう感じてるの?

本当にこの人で良いの?友達になりたい?

 

と聞くと正気の答えが見つかります。

 

 

 

 

言葉に寄りかかっていると、身にならないし、振り幅も大きくなるし、反動もきます。

 

そして何より人のせい、言葉のせいにする。

だから変わらない。

 

 

「気分良くいれば変わるんでしょ?」

「レイキやれば良くなるんでしょ?」

 

 

↑のような不純な動機を直視し、言葉や人によりかかっていたことに気が付けば、自分の軸(中心)に戻るのは早いです。

 

自分を見る、というのは、こういう自分の中で「見たくない」ところも見る必要があります。

 

その「見たくないところ」も、自分の一部を認めて、寄りかかってたな、と認めるだけで、「じゃあどうしたいんだろう?」というのがまた、見えてくると思います。

 

 

佐太神社で感じたこと

 

友人と佐太神社へ参拝したときの事。

この日は朝から1日曇りで肌寒い日でした。

 

 

佐太神社に着くと、他の参拝客も全然おらず、ゆっくり参拝出来た😊

 

 

正面の猿田彦神様の本殿前に立った時、白い暖簾?がふわっと風で動いた。とても心地良い空気が流れて、爽やかな感じです。

 

ちょうど、週末から落ち込むことがあったタイミングで友人から声が掛かっての参拝でしたが、浄化していただいて、かつパワーをいただけたような気がしました。

 

 

山の中にある伊邪那美命のお墓にも参拝。

いつ行っても、パワーを感じる場所です。写真は撮りませんでしたが、積み上がった石の向こうにある二本の木が、まるで門のように見えます。

 

あっち側とこっち側を繋いでるような…

目を閉じて手を合わせると、その門が光っているイメージが湧きます。

 

手前にある石から、エネルギーが出ているのを感じました。

 

 

 

「選べる。

 

どう生きたいかは自分で選べる

 

無理だと思うなら無理なのだろう。

 

可能だと思えば、何でも出来る世界に行ける」

 

 

 

感覚に降りてきたのを言葉にしていますが、こんなニュアンスの感覚を感じました。

 

「どうせ無理」

「やっぱりこうなんだ」

というモヤモヤ・抵抗を手放してやめていく

「無理」と蓋をせず、「出来るかもしれない、そういう世界があるのかもしれない」という隙間を空けておくことが必要なんだと、改めて思いました。

 

 

 

 

その足で、すぐ近くの田中神社にも参拝。

 

磐長姫さんのお社は、ピシッとした厳し目の雰囲気を感じることが多かったですが、この日は何となくスーッと清々しい感じがしました。

 

 

奥にある木花咲耶姫さんのお社は、いつも、手を合わせると「パッ」とやしろの扉が開いて、風と花びらがふわ~っと出てくる感じで柔らかくて「キャッ」という感じです。今回は、ちょっと妖精に近い感じの雰囲気で感じられました。

 

 

性質的に、磐長姫様は「縁切り」なのでかなりスパッとした厳しめの感じで(かっこいい感じ)、木花咲耶姫様は「縁結」なのでふわ~っとして柔らかい女神の感じです。

 

私の中では、この姉妹はとても仲が良い感じがしました😊

 

 

 

近くの川沿いにあるカフェに立ち寄り、ランチ。


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ハンバーグランチが美味しかった〜

950円です。お肉の味も濃すぎす薄すぎず、ソースと合って美味しい。


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白鳥がいた!人慣れしていて逃げません。

こんなに近くで見たのは初めてです。

 

 

 

 

◇・・◇・・◇

 

 

 

私はレイキをやっていますが、実はスピについてはあまり詳しくありません。

 

春分の日とか、エネルギーの全体的な流れとか。

 

知らないうちにやっていて、流れに乗ってたことが後から分かる…、そんな感じです。いつも。

 

 

「先生」とか「講師」というキャラではない(笑)

だから、同じところでグルグルして言い訳が多い人に怒っちゃうんですよね。「先生、講師」キャラなら辛抱強く優しくするだろうけど。

 

 

 

私も本当に色々気付きがあるし、気付きと実践の連続です。

 

 

 

落ち込んでいたこのタイミングで、浄化できたことと、何より声をかけてくれた友人がありがたかったです。

いい加減目覚ませ

 

自分にはパワーがない、という台詞が本当に嘘くさく感じられるようになってきました。

弱振っている人ほど、実はエネルギーが強かったりします。

 

 

私は、 

「パワー貰えたよ!」

「またパワー分けてね!」

 

と言われるのが本当に不愉快で嫌いです。

 

 

「いや、あんたにもあるから。無い振りしてるだけじゃん」って。

 

 

そもそもパワーというのは分けてもらうのではなく、そもそも自分の中にあるんですよ。

 

 

でもそれを思い出すと、「恐いこと」もやらなきゃいけない、本当の自分で生きなきゃないから恐いから無いふりをして、偽りの弱い自分で生きて悩んでるわけ。

 

 

私から見たら一人芝居です。

 

 

 

あなただから出来るんだよ、とか、私には無理だな、とか。

 

 

そういう人は、いっつまでもおんなじ悩みでグルグルして、「なんとかして欲しい、でも恐いことはやりたくない」って巧妙に逃げる。

 

 

今までは、仲が良かったからと、話を聞いてあげてたけど、もうやめた。

 

話してスッキリした!は、本当の意味でその人の為にならないのが分かったから。

 

 

 

思い込みを外す実践は特に、「恐い」んですよ。

 

でも、生きづらい、どうにかしたいのに「常識」に囚われて「こんなことしたら人として云々」と、制限だらけの常識を握りしめてたって、苦しいままでしょ。

 

 

それで、人に話してスッキリした〜で終わってたら、ずっと同じところをグルグル悩み続けるよ。

 

 

何年経っても同じ悩みを持ってる人はそうなの。

 

 

 

あんたいつまでそこにいるの?

 

 

っていう。

 

 

 

 

私の友人にもいましたが、毎回同じで、パワーが無い、分けて貰いたいで、もう悩みを聞くのも面倒になったので、もうこちらから連絡するのはやめました。

 

 

ほんと、学んだスピを活かせない、人のせいにして自分の核心を見ようとしない、言葉に寄りかかる中途半端なスピ難民ってエネルギー漏れがひどい。

 

人のアドバイスは「出来ない、やれない」で、人に話してスッキリしたで終わる。

もっとその奥に、見つけるべきものがあるでしょ、って。

 

常識、人として…って、それこそがあなたの枠・制限だからってことを言っても言い訳。

 

 

なら相談すんな、って(笑)

 

 

 

結局、その状態でモヤモヤし続けて体にまで症状が出てるやん。

 

いつ、目を覚ますの?

 

いつまで現実見て、意固地になってるの?

 

 

自分が、これだと信じたことすら信じきれないなんて。

表面的なことだけパラッとやって、本質的なところを見ようとしない。

 

 

いい加減、自分が全部そうしていることに気付けよ。

 

 

 

 

 

弱振っている人ほど、常識が強くて自分を抑えこんでます。

 

目の前に現れるパワーのあるその人は、弱振っているあなたの本来の一部分かもしれませんよ。

 

 

 

私自身も、改めて、もっと細かく自分に正直になって、気を遣うのをやめていくと決めました。

一致していく、の具体的な内容

やり続けて分かってきましたが、

 

自分と「一致していく」というのは、「良い気分の時間を増やしていく」ということで、「良い気分の時間を増やす」ということは、

 

今の自分のエネルギーが「あ、今ちょっと気分良くないな」と感じたら、切り替えるなり場所を変えて「気分良くいられるようにする」ということかな、と。

 

「ここに居たくないからチャレンジでやめる」

「やりたくないからやらない」

 

ではなく、 

 

「ここに居て、今の自分はあんまりエネルギー良くないな」だから変えよう

「これやってても気分良くないな。だからやめよう」

 

という動機。

 

 

 

これは似て非なるもので、

 

①「ここにいたくない!やりたくない!変えたい!」だと、気分が悪いままなんですよ。このまま場転をしたり、なにか別のことをしても、このきを引きずるんですよね。

 

というのも、根本が気分の悪さが動機になっているから。

 

 

②「あ、ここにいても気分が良くならない、エネルギーが重たいから、あっちに行ってみよう」

 

は、似ていますが、動機は前向きですよね。

自分の状態を理解していて試行錯誤する感じです。

 

 

 

②をやれば、必然的に気分が良くなることが増えます。

そして能動的です。

 

 

 

つい、①で動きがちですが、ウワーッとなってる内容よりも、そもそもウワーッっとなって「嫌だ!」となっているその状態が、「キャパオーバー」だったり「自分から外れている=気分が悪い状態」なので、深堀りする前にまずは「あ、今自分はあまり気分が良くないな」ということを認めることです。

 

すると、必然的に②のように「じゃあこうしよう」となります。

 

でも②をやるのは、思い込みや、今までの枠があると恐かったりします。

 

嫌われないか、居心地悪くならないか…

一人だけ外れたら……とか。

 

 

そういうときに、「ハードルを下げて」やってみるんですよ。

 

 

 

「やりたくないことをやめて、やりたいことだけやってるのにうまくいかない」のは、言葉に依存して責任の逃れをしているか、この①をやってるからです。

 

 

 

 

②をやると、結構楽しいですよ。

思い込みが外れます。

 

ちなみに、一度だけやっても意味がありません。何回もやることで慣れていきますから。

 

 

 

 

ただし、DV、パワハラモラハラ、病気など、生命の危機に直面していたら、①でもとにかく逃げて下さい。このフェーズではないです。

 

我慢してこの気分をやるフェーズではありません。とにかくその酷い環境から逃れることが最優先です。

 

 

 

 

エネルギーで見る、ということ

 

・ここに居たくないから、頑張ってチャレンジする

・この仕事したくないから、勇気を出して転職する

 

ではなく、

 

 

 

・ここにいると、自分が発してる気分があまり良くないな。だから移動しよう

・この仕事(業務)をやってると、収縮を感じるな。気分良くないから、もう少しやりたいことが出来る仕事を探してみようかな

 

 

やりたい、やりたくないではなく、「自分の発しているエネルギーはどうか?」というところを細かく意識して過ごすと、自分のニーズ(感情)を満たしやすくなる。

 

やりたい、やりたくない

ここに居たい、居たくない

 

という「表面」で動くと、滑ったりする。

もちろんそれでも、自分を内観して動いたのなら、うまくいくし、本当に変えてよかったと言う結果になることも多い。

 

 

けど、もっと細かく、もっとわかりやすく確実に自分のエネルギーを変えたいなら、動機が「自分の発しているエネルギーを良くするために」やるとより良いよね。

 

 

 

私も、なるほど!と納得。

 

 

 

現実が変わらないなら、自分が発してるエネルギー(気分)が変わってないからかもしれませんね。

 

 

 

サインを手放しなさい

ふと、少し前まで、神社に来ると「神様からの歓迎のサイン」を探していたことを思い出す。

 

 

 

ネットで検索、人からの言葉。

 

 

 

探して見つけては喜んで、なければガッカリ。

 

歓迎のサインを見つけることで、「受け入れられてる」と安心する

 

無いと、「今日来ないほうが良かったのかな」と気分が悪くなる。

 

 

もうねー、他人軸すぎ!!

ズレてるから、それ。

頭の我欲に惑わされてるよ。

 

我欲がそうさせている。

 

「ここに来たい」と思って来たなら、サインがあろうがなかろうが、関係ない。

 

参拝して、とても良い気分になったなら、それがゴール。

 

 

 

それでもモヤモヤするなら、参拝した動機に不純があったということ。

 

・自分の中の「今日じゃないな」などの違和感を無視して、予定してた日だから、今日しかないと無理に行く

・今日行かなきゃしばらく行けなくなる

・呼ばれたから早く行かなきゃ

 

 

そうやって、自分の心の声を無視して無理矢理行くから、小さな重たさが重なって気分が悪くなるの。

 

 

 

私も情報を入れすぎていたけど、

 

そもそも、「歓迎されてる、されてない」という概念すら必要ないんだよ。

 

参拝したいなら参拝すればいい。

 

 

天気だって、余計な概念がなければただの天気だ。

 

 

 

そこに「〇〇だから愛されてる」という条件をつけたり、他人のその「〇〇だから愛されてます」という表面的かつ打算的な、真実ではない概念を取り入れていくから重たくなっていく。

 

 

 

100%確実に、歓迎のサイン、拒否のサインなんて「外側」には存在しません。 

あるのは事象と、それに対しての「反応」だけです。

 

確信しました。

 

 

このタイミングで風が吹いた

「なんか受け入れられてる」

「歓迎されてるな」

「愛されてる!」

 

は、あなたが自分の源…自分自身と一致したから感じること。

神社に行かなくても、気分良いとそう思う時あるでしょ?

 

 

 

そもそも神様は、いちいち一個人に「歓迎、不歓迎」なんてしない。

 

 

 

その概念自体が他人軸である。

 

 

 

 

 

そうしたら、その数日後のこの参拝で、あるメッセージが降りてきた。

 

 

 

まさにその「歓迎サイン症候群」への気付きについての感覚だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それ(神様に歓迎される(た)、されない(なかった)、という事象)を越えて行け。

 

こだわるのをやめていけ。

 

歓迎されたから自分は特別だ、愛されてる

歓迎されてないから自分には価値がない、凡人だ

 

それは二極、ジャッジに他ならない。

 

外側の情報に惑わされるな。

 

 

己の本当の声に従い、己のタイミングで動くからこそ、全てが合うのだ。

 

妥協して、合わせて自分のタイミングでない時に来るから、「合わない」のだ。

 

お前の価値は、歓迎されているからあるのか?

事象で変わる価値なのか?

それは、外側への反応そのものである。

 

それをやめていけということだ。

 

 

その二極を越えて行け」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あー、気持ち良いなぁ

やっぱり私、神様に愛されてるわ〜♡」

 

 

って頭ではなく心の底から感じられたなら、それでいいじゃん。

 

他人の作った歓迎・不歓迎のサインに自分を当てはめていくのをやめなさい、もう。

 

絶対気分よくないはずだから。

気分が良くないのはあなたにとって真実ではないから。

他人軸だから、それ。

 

やめなさい。

 

 

 

 

以上。

十六島公園〜美保神社へ

十六島公園〜美保神社へドライブ🚗してきました。

 


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十六島公園

晴れも相まって景色が最高!!!

 

風が吹いていて爽やかで、

少し寒かったけど(笑)

 

こうして日中にゆっくり景色を見て風を感じるこの時間が、本当に豊かです✨


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巨大風車が圧巻!

 

 

十六島公園からは、ちょうど海の斜め向かい側に猪目海岸が見えます。地形的に陰に隠れてますが、猪目洞窟もチラッと見える…かな?

 

猪目洞窟は、大國主さんととても深く関係のある場所なのです。

 

 

 

本当は十六島公園からすぐに美保神社へ行く予定でしたが、道中に立石神社(たちいわじんじゃ)があると知り、急遽「行きたい!」となり行くことに。

 

 

 

道中は道が細く、対向車が来るとドキドキ…

 

 

 

立石神社には駐車場らしき駐車場もなく、道路の脇に停める感じです。

 

入口は、小さな看板1つのみ。本当に簡素です。

が、すでに入口付近からエネルギーが違うのが分かった。

 

調べて分かりましたが、隠れた有名パワースポットのようですね〜

(山の中なので、一人で来る時は鈴など持って身に付けていくことをオススメします)


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社はなく、磐の間にしめ縄があります。

昔の日本では、磐座信仰というものがあり、もともとは磐(岩)、山、海などの自然の中に神がいるとして信仰していました。

 

その名残を感じることができます。

 

 

祀られている神様は、大国主命のお孫さんの多伎都比古命(たきつひこのみこと)さんです。

 

雨乞いの神様なのだそう。

 

 

 

頭の中がスーッと軽くクリアになる感覚が分かり、「これが御神気か」というのがはっきり分かるような、澄んだ爽やかな空気感でした。

 

 

豊かさは「今」にしかない。

本当にそうだと思うくらい、素敵な時間。

頭の中の雑音がスーッとクリアになって静かになるのが分かった。

 

 

時間的にも長居は出来なかったけど、

「長居したから良いというわけではない」とのこと。

 

 

確かにその通りで、参拝後から、槍を持った角髪の男性のイメージがずっと浮かんでいたので、短い時間だったけどちゃんと受け取れていたんだなと思います。

 

後ほど絵にしてアップします。

 

 

 

 

 

その後は車で農道を走り、美保神社へ♪


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空の色がはっきりするのでこのアングルで撮ったら、なんと、飛んでる燕が写ってました!奇跡です😊

 

 

午後になってしまいましたが、ゆっくり空気を味わう。

帰ろうと思ったタイミングで、なんとご神事が始まりました!

 

太鼓、笛の音と巫女さんが舞を舞っていましたが、ご祈祷ではなく、恐らく夕刻の行事だと思われます。


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他の人は正面から見てましたが、私は横から間近で拝見させて頂きました。

ちょうどその最中に、雨がパラパラ降ってきて、ご祈祷が終わるとパッと止む。

 

何となく「神様が喜んでるな」というのを感じました。

 

 

というか、途中で急遽立ち寄った神社は、大国主命様のお孫さんの神様で、美保神社大国主命様の御子息の事代主神様。

 

めっちゃ 繋がり あるやんけ〜!!

 

とテンションめっちゃ上がった(笑)👍

 


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その時の空。

心が浄化されるような、スーッとする感じが写真からも感じられます。

 

 

 

 

本当に、楽しくてワクワクしたドライブ&参拝でした🌈😊

何故嫌だと感じるの?

 

「やりたいことをやって、やりたくないことを手放す…」は、言葉にすると微妙に語弊が出る表現だなと感じた。

 

 

「心が反応する(ウキウキする、心が踊る、楽しい、心地よい、一致する)ものをやる」

 

が、同時に「心が反応しない(これじゃない感じがする、気分が重たくなる、不一致な感じがする、楽しくない)ものをやめる」

 

ということになるが、これを単純に、表面的な言葉尻で捉えると「やりたいことだけやってやりたくないことをやめる」という表現になる。

 

 

こういう表面的な言葉、見える部分だけで捉えるとうまくいかない。

 

 

 

心地よい、楽しい、ワクワクする、一致する、惹かれるものをやると、やりたくないと思っていたことが実は「あ、なんか嫌いじゃないな」と分かることがある。

 

 

料理を作りたくない

作りたくないからやらない

 

これでうまくいく事例もありますが、「条件外せば」料理が実は好きだった、ということが分かる場合もあるのです。

 

 

細かく言うと、

「料理を作っている時、気分の悪さを感じている」

から料理が嫌だと感じる。

 

 

何故そう感じるの?

・(ちゃんとした)料理を作らなきゃいけない

・ちゃんと栄養があって映える料理を作らなきゃいけない

・品数は多くなきゃいけない

・手を抜いちゃいけない

・家族のためにちゃんとやらなきゃいけない

・洗い物を溜めてちゃいけない

という思い込みがあったな。

本当は、簡単に済ませたいな。洗い物が面倒だな。

今日は簡単な料理にしよう

好きな動画見ながら作ってみよう

リクエストに答えてみよう

洗い物面倒だから後で洗おう

あれ、なんか料理楽しいかも

 

 

 

本当は思い込みの中で苦しく料理をするのが嫌なだけなのに、料理自体が嫌だと感じてしまうのです。

 

 

ちなみに、洗い物をためて置くのはダメなことという思い込みを外すために、溜めて残して後で洗ったりしていました。

枠が外れたら、後で洗っても良いし、すぐに洗って台所を綺麗にするのも良いになって、結果的にすぐに洗う事が増えました。

 

 

このように、側だけ真似するのではなく、「自分のこの思い込みを外すため」に、案を実行するとうまくいったりします。

 

「この人が嫌ならやらなくていいと言ったから、嫌だから作らない」で終わると、自分が何故嫌なのかが自分で腑に落ちる前に行動するのでうまくいかないことが多いです。

 

 

嫌なら一旦離れるでもよいけど、

「どうして、料理が嫌だと感じるんだろう?」

この自己問答が必要。

 

 

私ももともと料理は苦手と感じて、作りたくないと思っていたけど、

 

自己問答をして、環境と一緒にいる人を変えたら実は、「手の込まない、料理の本やクックパッドを見ながら健康的な料理を作る」ほうが、私の好みだと分かりました。

 

もちろん、惣菜の日もありますよ。

 

 

料理に例えましたが、何にでも当てはまることです。

 

 

「側」だけ見てやってもうまくいかないことが多いのは、あなたとその人は好みもペースも違うからです。

 

「個」が違うので、見える部分=行動面=アイデンティティの部分を真似してもうまくいくわけがありません。

 

 

 

仕事でも何でも、該当すると思います。

 

 

ただ、DV 受けているとか、仕事が辛すぎて鬱病寸前など、生命に関わることなら、すぐにでも逃げて、自分を守ってくださいね。逃げることは場合によっては必要なことです。

 

人それぞれ段階というものがありますから。

自分を極める

 

自分と一致して過ごす時間を限りなく増やしていくと、物事はうまく回り出します。

 

 

今見えている現実は、「過去」の周波数の現れなので、目の前の現実に反応して一喜一憂していては、確実に自分は変わりません。

 

 

目の前の現実は過去の現れで、尚且つ自分が放ったものと同じものを感じるような出来事が起こります。

 

なので、そこに反応して「嫌だ嫌だ」と言っていても、何も変わらないし、「嫌だ」というエネルギーが出るような出来事が紐付けられて現れます。

 

 

 

嫌な出来事は、「自分の本当の望みを出すために起こっている」ということを理解し、嫌な出来事が起きたら、「じゃあ、私はどうしたいの?」と自分に聞く必要がある。

 

そして、その問ででた「こうしたい」を実際にやっていきます。

 

 

常に、現実や他人はブラッシュアップのために現れているので、「本当はどうしたい?」という問いを忘れずに問い続けることで、自分を生きられるようになってきます。

 

 

 

また、今年からは特に、「合わない、気分が乗らないこと」はやめていく時期に入っています。

 

私も、かつて仲が良くて話をしていた友人と、何となく「合わない…」と感じていて、実際に合う気にもならない…。

 

なのに、気を遣って連絡をしていました。

それが「無理に繋ぎ止める」ことで、本来の流れをせき止めていることにきづいたので、その気遣いをやめました。

 

合わない人は、自然消滅していく。

もうすでに合わない習慣はやめていく。

 

今の自分が、楽しい、心地よい、一致している感じがすることだけをやっていく。

 

 

そうすることで、眠りから覚めて、「今」という日常がとても豊かになります。

 

 

豊かさは、今にしかないということが腑に落ちることが、目覚めでもあります。

 

 

 

今は本当に、「言い訳」しているとあっという間に時間が過ぎていきます。

 

早い。

 

だからこそ、自分の内側に意識を向けて「どうしたい?こうしたい」を行動に移していくことが大切。

 

 

 

 

私も、変な気遣いをやめて、閃きに従って「こうしたい」をやっていきます。