言葉に寄りかかるとうまくいかない
言葉に寄りかかる、とは
・この人がこう言ったから、その通りやる
・これが良いって書いてたからやる
人に寄りかかる、とは
・この人なら私を変えてくれる
・この人に何とかしてもらう
という姿勢です。
人生的な概念や生き方を知識としていれて実践するなら、「腑に落ちてからやる」ほうが良いです。
腑に落ちて、「あ、いいな」と感じたらやる。
内容だけではなく、書いている人の気質やエネルギーも伝わります。
この「あ、何か良いな」の気分の軽さは、その気質やエナジーを選ぶとても大事なセンサーです。
それに、やりながら腑に落ちることもあるけど、腑に落ちたらやるほうが、多分「気分が良い」はずです。
腑に落ちてないのに、その人が「自分と合うのか=友達になりたいと思うか」分からないうちにやっちゃうと、合わない……ってなる確率高いよね。
私も、とにかく変わりたくて色んな人のところへ行きましたが、腑に落ちてないのに申し込んで、腑に落ちてないのにやるから、うまくいかなかった時に「人のせい」にしていました。
いやいや、「その人」を選んだのは自分でしょ?って。失敗したと感じるのは、そもそもの選んだ動機が不純だったからだろうと。
凄かったですよ。
「〇〇万円も出したのに変わらなかった!期待した内容じゃなかった!詐欺だ。全然何も得られなかった!」と、しばらく怒りが抜けなかったね。
今なら分かるけど、そもそもそれを選んだ動機が「この人のこの講座なら自分を変えてくれるかもしれない!」という邪かつ不純すぎるものだったんですよ。
かつ、その先生を中心とした輪の中に入りたい、仲間に入りたいという「友人がほしいという渇望」もありました。
その結果、この講座を通して、生涯の親友が一人できましたが、そこに目を向けず「不満」ばかり言ってずっと怒っていました。
いやいや、そもそものスタート地点が、
「この人!!」「これだ!!」と一致して腑に落ちて選んでなかったでしょ?
「この人なら自分を変えてくれるかも」って、他人任せにしてたでしょ?
だから、失敗したのよって。
「自分を変えたいって思ったから選んだんじゃん。じゃなかったらやらないって」?
だとしたら、そもそもあなたにそれは必要なかったってことよ。
あんなにお金かけたのに!
むかつく!
…いやいや、そもそもの動機が「自分を変えたいから、この人のこの講座なら、変えてくれるし変われる!」って、動機が外側だし不純だったじゃねーかよ。
「この人良いな、楽しそう!!」「絶対この人だ!」という一致感、確信はあったの?
「この人と決めたから絶対信じる」と腹で思えたの?
それがないなら、打算的な思考で決めたってことでしょう?
・この人なら自分が欲しいものをくれる
・この人なら分かってくれる
・変えてくれる
こんな不純な動機で選んだから、うまくいかなかったのよ。
自分を理解し、受け入れ、許すのは自分自身がやることだし、「変わる」のも自分しかないのよ。
「結果的に」変わってるもなの。
変わるためにやること自体が、「このままではいけない」という焦りからきてる、ということなんですよ。
その焦りが、「暴走した自我」だから。
暴走した自我が、正気を失ったまま選んでしまった。だからうまくいかなかった。
それだけなんです。
この事例も、「言葉に寄りかかる」「人に寄りかかる」〜起こったことです。
動機が、「言葉」「人」、外側だから、自分で責任を回収しない。
うまくいかなかった時に、「自分の捉え方が間違っているんだ」となれないのは、その人や知識・言葉に寄りかかって責任を転嫁しているからです。
本当は自分はどうしたい?
本当は、どう感じてるの?
本当にこの人で良いの?友達になりたい?
と聞くと正気の答えが見つかります。
言葉に寄りかかっていると、身にならないし、振り幅も大きくなるし、反動もきます。
そして何より人のせい、言葉のせいにする。
だから変わらない。
「気分良くいれば変わるんでしょ?」
「レイキやれば良くなるんでしょ?」
↑のような不純な動機を直視し、言葉や人によりかかっていたことに気が付けば、自分の軸(中心)に戻るのは早いです。
自分を見る、というのは、こういう自分の中で「見たくない」ところも見る必要があります。
その「見たくないところ」も、自分の一部を認めて、寄りかかってたな、と認めるだけで、「じゃあどうしたいんだろう?」というのがまた、見えてくると思います。