正直言うと、自分や他人を責めたり、僻んだり攻撃する方がラクだ。
一時的に、気分も良くなる。が、本当に一時的だ。
だから、責めるのを辞められなくなる。
そうしている間は、出来なかったと言う喪失感、無価値観、無能感、罪悪感、深い悲しみを感じなくて済むけど、責めるのを辞めたら、本当の恐れが自分を追いかけてくるからだ。
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出来なかった自分を責めた方が、
強烈な胸の痛み
ギューっと苦しく痛いその感覚
何も出来なかったという無力さ
その無力さと向き合う強烈な恐れ
を感じるよりもラクだったからだ。
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自分が責められる前に人を責めれば、自分の立場が安全になったと錯覚できる。
正当化も出来るし、それで同意してくれる人がいれば、
「自分が人を責めたこと」が正当化されてラクになる。
強いことをアピールもできる。
そうすることで、
何も出来なかった弱い自分や、失ったと言う悲しみ、失う恐れ、心臓を鷲掴みにされる苦しさ、大切な人や動物がいなくなった時に何も出来なかった…という深い無能感、どうしたらいいのか分からない混乱、絶望、悲しみを感じずにすむ。
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自分はなんて卑屈な人間で身勝手な人間なんだろう。
誰かや何かの助けよりも、自分の保身を優先している。
悲しみを感じたくない。
恐れを感じたくない。
恐れから逃げたい。
人から責められたくない。
人から責められて、無価値観や無能感、悲しみを感じたくない。
感じるのが怖い。
その悲しみや恐れを真正面から味わってしまったなら、
自分が生きていられなくなりそうで。
立ち直れない、失った現実だけが残されたこの世界で、
失った悲しみと、どう生きていけば良いか分からないという混乱が怖い。
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そうやって、人や、卑屈な自分だと責めるほうが実はラクだった。
出来なかった自分を責め、模範通り、「正解」の通りにしない他人を責め、何もせずに不満を言えるから。
後になってからならいくらでも言える。
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なら、本当はどうしたかったの?
本当なら、自分はその時どうしたかった?どう存りたかったの?
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自分の意見を臆せず言い、「こうしたい」ということを言いたかった。
怒られてでも、叱られてでも、自分の意見を伝えるべきだった。
逃げていたのは私だった。
言うことを素直に聞いて、押し黙るほうがラクだからだ。
その方が、波風が立たなくて良いし、安全だし、安心だったからだ。
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立場の上の人間には屁辛笑い、言うことをなんでも聞く。
おかしいことにも黙っている。
自分より弱い立場の人間には自分勝手に言うことを聞かせ、
わがままが通らないと不機嫌になる。
当たり散らし、言うことを聞かせて満足している人間の集まりだった。
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内側の感情で、最も怖いのは「悲しみ」と「恐れ」だと言うことがわかった。
悲しみを真正面から感じるのがすごく怖い。
「怖い」ということを真正面から感じるのも怖い。
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本当はどうしたかった?
本当は、何が起こっても冷静な視点を持っていて、
自分が「こうしよう」という閃きと案に従い、
その時に自分が出来る最大限のことを行動に移し、やれるだけのことをやる。
自分の保身を考えることなく、そうしている。
そういうふうになりたかった。
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正しい、模範通りの動きをするのが望みではなく、
その時に出来うる最大の案を実行している状態の自分になりたい。
これが望み。
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ここまで来たら、強烈な深い悲しみや怖さが、勝手に無くなっていた。
次、同じような状況になったら、冷静に、自分が出来うる限りの最善策を取ろう。
それで救えなかったとしても、その悲しみも後悔も、全て真正面から受け止める。
その覚悟が決まったら、気持ちがスーッと軽くなった。
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この一連の流れが、本当の感情の癒しだと体感しました。
恐れることを恐れて、悲しみを感じることを恐れて自己啓発を学んでも、
消したかった一番の悲しみは、ずっと心の奥底に残っていました。
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真の気分の良さとは、自分の悲しみや恐れから逃げないことで得られるものだ。
本当の望みは、その悲しさと恐れの裏側にある。
内側にある強烈な恐れや悲しみから逃げずに、真正面から受け止める覚悟があって初めて、
瞑想や宇宙理論というメソッドが活かせるのです。